bookshelf 『小説の読み書き』 佐藤正午 忍者ブログ
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00431024.jpg  常々、小説家という職業の方々は同業他者の作品をどのように読んで
 いるものであろうか、と思っていたので手に取ってみました。

 同じ意味を持つ言葉の中でも、何故この言葉を選んだのだろうとか、
 漢字で表す場合とひらがなで表す場合の違い、
 または同じ「きく」ということでも「聴く」または「聞く」と表す場合の
 違い、そして、
 

 小説を読んでいて感じる、
 「ああこの説明過多は、作家は読者に誤解(誤読?)されることを
  恐れているのだな」とか
 「ああこの作家は、『ついてこれるやつだけついて来い!』という
  スタンスだな」とか

 「ああこの作家(作品)は、どちらを突き詰めることも出来ず結局双方から逃げてしまったな」とか
 「ああこの著者は読者の読解力をまったく信じていないのだな」など、

 読みながら頭の中で自動処理していた事々を、夏目漱石などの名作を例にきちんと整理して
 くれています。

 そういう意味では「新しい発見」はあまり無かったんですが、

 文章というものは作家の手を離れた時から一人歩きをはじめ、読者は自分の読みたいようにしか
 読まないし、自分の理解の範囲でしか理解できないということを、

 「読者は読みながら小説を書く。読者の数だけ小説は書かれる」

 と表現していて、なるほどこれは上手い表現(言い換え)だなぁと感心しました。

 太宰の「人間失格」については説明がまどろっこしい(一般的には丁寧と言う)けど正鵠。

 樋口一葉の「たけくらべ」に付されている付記に驚いた。
 「雅俗折衷体は樋口一葉にしか書けない」という文章を文字通りに受け止めるひとがいるのか。
 それは先達に対する尊敬の念と「たけくらべ」という作品に対する賞賛の表現であることすら
 (いくら抜粋とはいえ)理解できないほど、国語力は落ちているのか。

 林芙美子の「放浪記」に対する著者のひっかかりが、私には全然理解できない。

 何故かと考えてみれば作家というイキモノは文体を「計算しているのか」。
 著者は「文体には作家の明確な意図がある」と考えているように見受けるのだけれど、

 太宰の読点の打ち方も樋口一葉の動詞ではじまり台詞で終わる文章も、もともと作家の
 中にある「リズム」みたいなものが、身体から渾々と湧き出てくる抑えがたい鼓動みたいな
 ものがあって、

 推敲するということはそのリズムを更に尖らせたり凸凹をつけたりして磨き上げること、
 つまりは最も自分にぴったりくるリズムに仕上げることなんじゃないかと思うのだけれど、
 それって「明確に意図」していて、「明快に言語化」できるとは限らないんじゃないかしら。

 と、思ったりするのだけど。


小説の読み書き」 佐藤 正午 ★★★
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