本はごはん。
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考えさせられる良書だと思います。
インフォームドコンセントの実例が示されていますが、
「緊急事態で一刻を争う」
「(さっきまで元気だったのに)突如としてそのような状況(事故とか)に
陥ったことに対する動揺」
「患者(および家族)は医学的には素人」
そのような状況に於いて、インフォームドコンセントはどこまで機能しうるのか。
一刻を争う場面で、医学的素人に対して全ての起こり得る事象を説明しきる
ことができて、
また医学的素人がそのような動揺のなかで正しい判断を下せるものなのか。
(いや、パターナリズム万能とも思っていませんが)。
まあそのような緊急事態での機能性はともかく、インフォームドコンセント自体は良い
傾向だと思うのですが、本来は患者の自己決定権を尊重する目的で始まったこの
インフォームドコンセントは、なんでも訴えられてしまう昨今、医者の防衛策として使われる
側面が強くなっているように思います。
このなかでも書かれていますがそれは、「死に対する責任」をあちこちで回避し始めたことに
よってあらわれてきた現象のひとつなのかもしれません。つまりそれは、そもそも
「患者の自己決定権の実現」という目的であったのに、その目的がいつの間にか
「医者の免罪符、言い訳用」にすり替わってしまっているような、そこまで医者が
追い詰められている、つまりは患者やその家族が、「死」の責任を病院や医者に預けよう
(押しつけよう)としている現実。
個々の価値観を確立しにくい世の中になっているのかもしれませんが、併せて他人の
価値観を受け入れる訓練を我々は怠ってきたのではないか。多発する信じがたい凶悪犯罪や
若年層の事件なんか見ても、自分のことばかりでそこには他者の価値観を受け入れるどころか、
「他者の存在」自体が欠落しているように思います。
そして何より、万が一そんな状況になってしまった場合、自分のいちばん大切な人の延命装置を
あたしは果たして外すことが出来るのだろうか。例え本人がそれを望んでいたとしても。
甚だ、自信がありません。
「救命センター部長ファイル」 浜辺 祐一 ★★★★
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